白坂優(しらさかゆう)の1万字プロフィール
はい!初めまして、白坂優(しらさかゆう)と申します。顔に似合わず「しらぼー」なんて可愛い名前で呼ばれます笑
やー、ブログ書こう書こうと3か月。やっと初投稿となりました。
冒頭でもお話したように僕、「フリーランス」を目指します!
ということでその一歩として僕もプロブロガーなんていう肩書を掲げるモンスターの巣窟へと続く入り口にやっと立つことが出来ました。がんがん突き進んでいきたいと思います(笑)
僕としては記念すべき一発目なんですが、、正直何を書けばいいのかマジで分からなかったんです。で、やっぱり1発目は自己紹介かなということで。
よろしくお願いします。ではでは、
- 【18歳の僕は1番大好きな人を失った】
- 【僕は1年間で400万円の環境を選び1つの約束をした】
- 【母のため?病的なまでにのめり込み、焦り、悩み、迷い、僕は首席になった】
- 【人生で初めて死にたいと思った】
- 【「好きこそものの上手なれ」19歳の僕は1部上場企業に最速で最年少社員になった】
- 【このまま死ぬなんて嫌だな、、、】
- 【僕がフリーランスを目指すことを決めたのはある有名ブロガーの存在】
【18歳の僕は1番大好きな人を失った】
いきなり重い話でごめんなさい!!笑
流れを考えると仕方無かったんです。明るい話ではないですが、今日までの僕を語る上でどうしても外せない話なので少しだけ聞いてください。
結論から言うと
僕は18歳の時、母親をガンで亡くしました。
僕はこのことがあってから家族や友人の大切さを
本当に理解できたと思います。
今では不幸とも思えた出来事に感謝さえしています。
いつも明るく、気分屋でしたが、芯が強くある人で
正義感が強く、嘘を許さず、何より最高の母親でした。
大人になり客観的に見てもそう思います。
母が病気だと知らされたのは僕が17の時。
高校2年生となった年の末頃、いつものショッピングモールへ買い物に付き合った際に
ふと父親に改まった様子もなく「話がある」と言われたんです。
始めは自分が何か相当やらかしたか、実は多額の借金があるのかと思いました(笑)
目の前には服屋や靴屋が並び、子どもが走りまわっているような通路の脇のベンチに父、僕、母と三人で掛けました。
すると、一息ついて母親が
母「優、落ち着いて聞いてね?ママね、ガンなの。」
僕「ん、、、?ん?ガンて、あのがん?」僕はいまいち呑み込めません。
いきなりそんなこと言われても当然ですよね。
母「ガンが再発してしまってこれから本格的に
治療に入るの。もう隠せないから優には先に話そうと思って」
母はすでに少し涙目で僕はなぜか震えてました。
僕「死ぬの?余命とかないよね!?ってか再発って!?」
僕は全く気づきませんでしたが実は母は以前、乳がんを発症していたそうです。
ガンは目安として5年再発しなければ完治だそうです。
この時母は4年と9か月での発症でした。
僕は過去の自分を恨みました。たくさんの喧嘩をして、心配をかけ
ひどいことも言いました。そのストレスさえなければ発症しなかったのではないか。
なんで俺の母親を選んだんだ、と。
さらにこうした状況に置かれると人はどんどん冴えてくるんでしょうか
今までは隠せていたレベルでの治療だった。
これからは隠せないレベルでの治療、、、
きっとかなり進行してんだ。俺はなんて声を掛けたらいいんだ。
母には怖くて病状を聞けませんでした。
きっと聞いても本当のことは言わなかったかもしれません。
僕は人が大勢行き交うショッピングモールで
号泣したことを今でも覚えています。
恥ずかしげもなく人前で泣いたのは人生でこれが初めてでした。
こうして僕は亡くなるまでの約1年。母の闘病生活の傍らで学生生活を送りました。
当時付き合っていた彼女や、友達、塾の先生、親戚、たくさんの人に声をかけてもらい
支えてもらいました。
その期間の心情や出来事はここで書くと1発目から何万字という大作に
なりかねないのでやめておきますが
最期は家族5人で(僕は妹が2人います)行った温泉旅行の帰りの車中で僕が
手をつないで座る横で天国へ行きました。
ここで生意気にも1つあなたに伝えたいことがあります。
大切な人は大事にして、一緒に時間を過ごしてほしいなと思います。
こればっかりはなかなかきっかけがないと難しいかもしれませんが、これを読んでくれたあなたのきっかけになれれば嬉しいです。
僕は母を亡くした1年前に幼馴染であり高校の友人もバイクの事故で亡くしています。
17歳でお葬式で弔辞を読んだあの気持ちは複雑です。
この経験は今の僕にとって大きな影響を与えました。誰とどのように生きたいかはとても重要だと思います。
【僕は1年間で400万円の環境を選び1つの約束をした】
ここで少し僕の癖の話をすると僕は昔から何かにハマるとそれを邪魔するものは全て敵となりそれだけをやり続けたい。集中したい欲求に駆られます(笑)
集中すると周りは本当に見えなくなってしまうんです。
タイトルは僕の専門学校時代の話です。
僕はこう見えて調理の専門学校に通っていました。そんな風には見えないですよね(笑)一般的なものであれば大抵のものは美味しく作れるだけのスキルはあると思ってます(笑)
そして400万とは1年でかかる学費です。ヤバくないですか!?笑
1年で400万ですよ⁉、、くそ恐ろしい、、
(国公立なら4年間通えるそうです)
通学時は一日の授業料を計算して噛みしめていました。
400万は我が家でも例外なく大金です、、、
当然ながら進路選択という名の家族会議は大荒れでした。
僕の両親は何をするにも「Why なぜ」を大事にする人でなぜそこなのかがとても重要でした。
僕が行きたい理由はシンプルでした。それは
「数ある調理学校の中で一番惹かれたから」
僕が選んだ学校は「エコール辻 東京」という大阪はあべのに本拠を構える 料理業界では知らない人はいない超有名学校で数多くの有名シェフを何百と排出しています。
それ故、就職できるレストランのレベルも桁違いでした。
本場フランスで修行する道もあればいきなり超高級三ツ星レストランに
就職することだってできるような学校でした。
とにかく最高のスタートダッシュができる環境。
マリオで言えばいきなり最終ステージ6-1からスタートできるような。
「俺は絶対にここに行く!!ここじゃなきゃ嫌だ!!」
僕と母は当時半狂乱で4時間近く真夜中に言い合いをしていました。
僕は、負けず嫌いで、プライドが高く
好きなことへは妥協がができない頑固なくそガキでしたので
自分の進路ならなおさら1ミリも引けませんでした笑
あまりにも僕が引かないことから本気だということをなんとか理解してもらい願書を出す許可を得ました(笑)本当に感謝しています。
ただ、その時に1つだけ、父親とある約束をした、、させられました。
それは
「そんなに1番1番言うならお前は1番で卒業するんだよな?覚悟があるんだよな?」
僕は、「全国から料理大好きなイカれた奴らが集まる学校なんだぞ!?」と
言い訳したい気持ちをグッと、グッッっと押し殺して「わかってる」とどや顔で返事を返しました。
正直この時は本気ではやるが1番なんか取れるわけねーだろくらいに思っていました笑
本当にくそガキですよね。
その翌年、
僕は母を亡くしその2か月後、バケモンだらけの辻へ入学。
僕の料理人人生の幕が上がった瞬間でした。
【母のため?病的なまでにのめり込み、焦り、悩み、迷い、僕は首席になった】
入学した僕はきっとぎらついていたと思います。笑
料理や授業、将来の話になると殺気があると言われていました。
母との別れ、400万円の環境、新たなステージ。僕を駆り立てるものはそろい過ぎていたくらいです。
やる気しかなく、1分1秒も無駄にしたくない。バイトする時間も遊ぶ時間もいらない。
料理のことだけを考え学びたかった。
結果、当時の僕は1年制の学校だったのですがバイトはせず、卒業式の打ち上げ以外一度も呑み会や食事会などには参加したことがありませんでした。
(友達は普通にいましたよ!笑これまでの通信簿には書くことがないのかどうなのか、白坂君の周りにはいつも笑顔があります。だそうです。)
今でも同じ熱量でともに頑張っていた友人達とは
連絡を取るし、多くがリタイアする中その友人達は今もなお第一線で活躍し続けています。(これは僕の嬉しい自慢笑)
ここで少し脱線して先生たちの話をしたいと思います。
もうね、めちゃめちゃ怖かったですwwww
先生ではないんです。現場の先輩ですあれは。
教室には怒号が飛び交い、個人攻撃を喰らえばメンタル的には登校拒否したいレベルでえぐられます。禿げます。
ただ話すだけで動機が乱れました。ほんとに。笑
ただそのおかげでメンタルは少し強化されたと思います。笑
そして何より尊敬していました。素晴らしい恩師です。
そんな落ち着く暇のない生活の中で人生初の就活もしました。
これが後に僕の大きな転機となります。
大学などと同じように学校にも進路室があります。そこで行きたいレストランの選考日や待遇を確認できるファイルがズラッと並んでいます。
ちなみに料理業界の就職のルールは公立高校と同じように単願制で、複数受けることは出来ません。一つ受けている間は合否が出るまで他のお店に浮気はできません。
男気一本勝負です。
ただここで問題が。
僕らは4月に入学して6月には就活をしなくてはなりません。
行きたい店が決まらないのです。というより決められないのです。
そこからは皆、急いで何件も5,000円、10,000円を払って食べ歩き、行きたいお店を探しだすんです。スーツを着て、慣れない高級レストランへ出向きシェフに挨拶をします。この経験はいい経験でした。ちなみに皆、金欠で何度も死にます(笑)
ある日、ふと進路室に行くとアドバイザーの先生に「白坂君、ロブション受けないの?」と一言。この一言が僕の人生の中で1つのキーワードとなりました。
聞いたことない人も多いと思いますが
日本だけでなく世界でも名実共に1番のレストランです。
恵比寿ガーデンプレイスはご存知でしょうか。
ドラマ「花より団子」で牧野と道明寺がよく待ち合わせる謎の石柱スポット。
写真の奥の方にちょこっと見える建物、、、
そう、これ。これが一棟全て、丸々レストラン。「ジョエル・ロブション」なんです。
ミシュランは聞いたことありますよね!。
レストランに☆の数で格付けする、あれです。
ジョエル・ロブションはそのミシュランで世界で最も多くの☆を持つ超高級レストランです。美食の国、われらが日本。の美食が集結した東京にさえも三ツ星レストランはロブションを含む2件しかないんです。
つい先日、以前働いていた当時の同期と呑んだ時に聞いたのですが
コースのお値段45,000円だそうです、、、。
そんな一流レストランの選考締め切りが明日に迫っていたのです。
うーん、、どうしよう、単願だろう 、、。
「どうせ受からないだろうし、なにもしないのももったいねぇしな」くらいの気持ちで後先考えず勢いで願書を提出しました。
選考は全部で4回。6月から11月までありました。
単願性の恐怖は凄まじかったです(笑)
そして僕はなんだかんだで最終選考まで終えていました。
なぜなんでしょうか笑
ちなみにレストランの就職って様々なんです。
シェフと話したその日その場で決まることもあれば、書類審査、面接、実技と段階がある場合もあります。僕の場合は後者でした。
そして2週間後。うちのクラスでは合否は先生に伝えられるという慣習でした。
ここで不合格なら卒業まで残り2か月という中で就活やり直しですwww
その日は帰りのホームルームが終わった矢先、先生に呼び止められ、合否だ!と察しました。
この時は何故か、いつもは怖い先生が妙に穏やかなんです、、
先生:「白坂ぁ、次受けるとこは探しとけっつったよなぁ」「まぁとりあえず落ち込むなよ」
僕:(そっか、落ちたかぁ、惜しかったなぁぁぁあ。なんか泣きそうだぁぁ、、。)
こうして渡された紙にはちっさく「合格」と書いてあるのです。笑
数秒、時が止まった後、興奮と安堵でイカれたぼくはあろうことか先生に対し
「おーいぃー!!受かってんじゃねぇかよぉぉ!!笑」などと吠えてしまいました。。。
その後俺はぼこぼこにされます。お調子者なんで先生はそこが嫌いでした。笑
とはいえ、僕は学内で唯一、一流と言われるレストランでの環境を手にできたのです。
そして卒業間近、僕は先生に呼ばれ
「お前を首席で推薦した。ほかの先生もそれで一致した」と首席での卒業も果たすことができました。これに関しては本当に予想外でした。
ちなみにめちゃくちゃ勉強はしてました。バイトもしていないのに、
バイトしてる人に負けたらおかしいという持論の元に。
負けたらやる気がないか、効率がクソみたいに悪いかの2択、もしくは両者です。
結果、父との約束も守り、母へ良い報告もできました。
そうして僕は1年間の最後の学生生活を終え社会の荒波へと出航しました。
【人生で初めて死にたいと思った】
僕は六本木ヒルズの店舗へ配属されました。店内はこんな感じ。
勤務時間は今でも笑っちゃいますが朝の7時から深夜の2時まで。めっちゃ働きます笑
1日、15~17時間勤務はこの業界ではなくもないのです。
もちろん終電では帰れないので自転車通勤できる距離に住む必要がありました。
そこで初めての一人暮らしをした家は恵比寿で家賃8万円の8階でした。
ガーデンプレイスからは徒歩5分です(笑)
ベランダの真下には首都高が走り
顔を上げれば東京タワー、スカイツリー、六本木ヒルズが一望できました笑
(そこしか空いて無かったんです、、)
ただ、そんなものに浸る余裕は少しもない怒涛の日々でしたが、、
僕の1日はこうです。
朝の7時に店に行き、先輩たちが仕事ができるようにまな板から包丁、ダスターからスプーン1本に至るまでそれぞれ決められた場所と数に配置します
それから併設されているパン屋さんのために丸鶏を焼き上げ
その間に大量のサラダをちぎり、パンをカットしあらゆる調味料を補充し
厨房を駆けまわり先輩のお手伝いをしてギリギリでランチが始まります。
営業中はオーダーや掛け声、指示は全てフランス語が使われます。
これが本当に大変でした(笑)聞き取れない!!!
僕は決められた料理、個数のお皿を出すのが最初の仕事でした。
温めたり、冷やしたり、その数実に30種類近くあり当然パンクします。
何のコースで、なんの料理で、なんのお皿で、何枚か、すべてがフランス語です。
僕は皿を温めすぎて火傷するレベルの殺人皿を何枚も作りましたし、
パンを焼け!と言われれば焼くまで良いのですが焼いたことを忘れ後方でパンが燃えているなんてことも多々ありました(笑)僕がお客さんなら爆笑です。
何度、殺されると思ったか。
そしてランチ終わると今度はすぐにディナーの仕込に入ります。
この頃には毎回空腹で死にかけていました(笑)育ち盛りの19歳です。無理もありません。何か、何か食べたい、、
飲食店には皆さんもご存知のまかないがあります。うちももちろんありました。
ただ、食べていいのは自分の仕込みが終わっている者のみ、です笑
僕はちゃんと賄いが食べれたことは3回しかありませんでした。笑
慣れない僕は仕込みが終わらないんですよね、、先輩のお願いも交わしつつ仕込む技術は必要ですね。どこも同じかもしれませんが(笑)
「え!?じゃあご飯なしで1日働くの!?」
優しいあなたからはそんな声が聞こえてきます。笑
結論、そんな日がほとんどでした。一度つまみ食いすれば行ける!!と思って
一度バレたのですが次は殺されそうだったのでこの作戦は無しです。
でもさすがに死にそうでした(笑)空腹すぎて集中できないんです。
モノ忘れも半端なくなります。そうすると仕込み中も営業中も容赦なく先輩方からの洗礼を浴びます。ここでは書けないようなことありました笑
(そういう世界なんだと割り切るしかありません)
このままでは俺は洗礼の浴び過ぎで殺される。
本当にそう思っていた僕はある作戦を思いつき多用しました。その名も。
「トイレ行ってきます作戦」!!!
(名前がダサいが仕方ない。こっちは必死だ!ばか野郎。)
ヒルズには関係者用の更衣室が本棟7階にありそこの通路にはパンの自販機があるんです(笑)
ただしそこへ行くには従業員証を「ピッ」とかざさなくてはいけません。
新入りの僕はそれがないので先輩にカードを借りて
トイレという名目でディナー営業前に駆け込み自販機のある7階まで駆け上がりパンをその場で口に詰め込みエレベーターにダッシュ。
そして厨房に 「トイレあざっーす!」という顔つきで舞い戻り、先輩にドヤ顔でカードを返します。ここまでできて成功です。
ちなみにこれはめっちゃしんどいですww
普通に吐き気します、萎えます、禿げます。
営業中にばっくれようとしたこともありました。(ばっくれ=突然辞めること)
それはもう逃げるように。
3回チャレンジしてすべて先輩に捕まりましたけどwww
【1回目の挑戦】
トイレ行きます作戦決行。そのまま更衣室に直行。着替えを済ませさようなら。
のはずが扉を開けると先輩が。。。
【2回目の挑戦】
営業中に具合が悪いからと退勤を希望。先輩が稀にみる優しさを見せ
仮病の僕はフリで病院へ行くことに。その車中でバックレる気だったろ?の問いに
「はい」。。。
【3回目の挑戦】
自宅で仮病。ぴんぴんの中、「あぁ、あ、あのぅ、、熱があ、あって、、、」
「とりあえず病院で証明書もらってこい。お前仮病だろ?」
「今なら俺しか知らねぇから正直に言え。」
「すみません、仮病です。行きます。」
出勤後、その一連の下りを全員知っている。失敗。
もうちょいうまくやれよッ!!!!
そんな日々を毎日過ごしていた僕はあまりの過酷さに疲れ帰宅したある日
ふとベランダにでて首都高に視線を落としました。すると
「あぁ、死んだらラクだなぁ」、、、ん?俺今何を考えた⁉
僕は自分で驚きました。死にたいと思うなんて絶対にないと思って生きてきたからです。僕はこの時に辞めようと決意しました。辞めなきゃまずいと思いました。
翌日、恐る恐るシェフに旨を伝え僕の一歩目は2か月で幕を閉じ、同時に初めての挫折と飲食業界への恐怖が拭えなくなってしまいました。
僕は軽いうつ病のような状態になっていました。
【「好きこそものの上手なれ」19歳の僕は1部上場企業に最速で最年少社員になった】
父に相談し、実家に帰った僕は1か月間本当に何もできませんでした。
無気力ってやつです。
今振り返ってもこの時期は苦しかったですね。無職になり
やりたかったことがやりたくないことに変わった瞬間です。
目の前は真っ暗でした。初めてこれが挫折なんだと思いました。
父に甘えがっつり休養した僕は次の仕事を探さなくてはいけませんでした。
悩みに悩んだ末に僕がだした答えは「キャンプ」でした。
キャンプは最高ですよ!焚火を囲んでコーヒー飲んで語るんです(笑)
何となく光が差したように感じ求人をすぐに調べました。すると1つだけ。
「Snowpeak」新潟に本社を構えるアウトドアメーカーで
ホームページへ飛ぶと、めちゃくちゃかっこいい、、、
社長はとても魅力的な方でみんなの頼れるお父さんのようなイメージ。
・気になった方こちらから
スノーピーク * snowpeak | アウトドア ライフスタイル クリエイター
「人生に野遊びを」このコピーに僕は強く惹かれ
その瞬間に電話をし、面接日を決めていました。
そして2次面接を経て契約社員として入社。
当時、東証1部上場もしたばかりの波に乗っている会社でした。
オートキャンプという車をキャンプサイトの近くに止めてキャンプをする
今じゃ当たり前のスタイルを日本に持ち込んだのはSnowpeakなんです。
そして半年後、新たな事業としてレストラン事業をするということで過去の実績を買っていただきその中核メンバーとして晴れて社員となったのです。
ただ、一抹の不安がよぎりました。
「あれ、また飲食だ、、、」
【このまま死ぬなんて嫌だな、、、】
入社して半年ほどたった僕はそれまで
お客様にキャンプ用品のご案内をしていました。
カタログ片手に説明をしたり
一緒にテントを立てて講習をしたり
イベントに出向いたりととても楽しかったです。
退職した今でも僕はsnowpeakが大好きです!
これからもお世話になりたいと思います。
そして何より勤務時間の短さに驚きました(笑)
前職の半分です。それだけで天国かと当時は思ってましたね。
6時間寝れる。殺されない。奇跡でした(笑)
また、この時初めて小売りでの販売というお仕事をさせて頂きましたが誰かの役に立てることをとても実感できとても貴重な経験となっています。
そして、僕は新たにレストランに配属となりそっちで働き始めるわけなんですが、いざやってみるとこれがまた楽しい。
接客が好きだったんだと思います。
というよりさらに言えば周りから認めてもらえるからってのもありました。
お客様と会話が弾み、笑顔でテーブルが盛り上がる。常連となり僕に会いに来たよーと来てくれるお客様もできて幸せでした笑
今も連絡を取っていて最近ではお家に呼んでいただきました。
ただ、3ヶ月ほどしてふと考えるようになったのです。
『楽しいけど、俺何がしたいんだろう、、』
そもそも飲食の仕事に就く気の無かった僕は
将来の目標なく楽しいからだけで働くことに不安を抱くようなったんです。
考えた僕はやっぱりキャンプ用品を売りたいと当時のマネージャーに相談しました。
が、しかし。答えはノーでした。
ならばやるだけやってやる!と意気込んだのもつかの間、レストランの上司とまぁ気が合いません笑
ここでどう向き合うかは人それぞれの考えがあると思いますが
僕は人間関係は半分はコントロールできて半分は環境だと思っています。
この時の僕がだした答えはこうです。
僕もここでの先をイメージできない。やる気が出ないことを人のせいにすることは違う。では場を改善するために時間を使うか?否。そこまでここに尽くせるほど得たいものがない。ならば足を引っ張る前に俺が辞めるべきだ。
僕が個人の都合で焦っていたこともあります。にしたってやる気あるんですか?な状態に見えてしまったんですね。こうした悩みや不満を持っている人は話を聞くとほぼみんな持っているんですよね(笑)
それがコントロールできないならどうすることが良いのか考えた方が自分が楽だと思います。その場でやり過ごすことほど無駄でクソほどしょうもないことです。
不満には耐える。けど何も改善行動はしない。いいんですかそれで?
話を戻すと、ようは慣れてしまってこれ以上仕事を増やしたくない。楽して給料貰えるならいいじゃんという感じ。新参の僕はがっかりしました。そんな働き方の何が楽しいんだ。せっかく色々できるのに。
それから約2年勤めましたが特に何が変わったわけでもなく、僕もその場に馴染むことにストレスを感じながらもやり過ごす日々を送っていました。
この時、環境で人は良くも悪くもなる。ということを痛感しました。
転職にも不安がありなかなか動けなかった僕。今振り返ると本当にもったいない時間でした。
そしてふと先のことを考えた時、このまま死ぬのは嫌だなあと思いました。
「何に」「誰に」こんな我慢してんだ俺は?
僕は仕事が楽しいかと聞かれれば「楽しいよ!」と答えられる自分でいたかったんです。
僕は仕事を辞めました。ある人の後押し、「一言」が忘れられなかったからです。
【僕がフリーランスを目指すことを決めたのはある有名ブロガーの存在】
辞めたいけど生活もあるし辞めるのが怖い。そんな葛藤に悩みつつも、もう流石に我慢ならん、行動しないと後悔する。と気付き始めた頃です。
ある人からたまたま連絡がありました
ブロガーであり、コンサルもこなす
いつまでもアフタースクールというブログを運営している「ぶんたさん」です。
奥で大笑いしているのがぶんたさん。下記リンクがぶんたさんのブログです。
ちなみにこの写真は高知に行った時の「利きビール選手権」の一幕。
超楽しかった。笑
この人は本当に面白いんです。僕とぶんたさんの関係性を簡単にお話すると、高校時代の先輩と後輩です。
ぶんたさんは高校時代、生徒会長を務めていました。なので僕は数年経った今でも
「かいちょー」と呼んでます笑
ぶんたさんはタイトルにもあるように高校卒業の7日前に起業する為に退学した常識破りで破天荒な方です。笑僕の感覚ではあり得ないことです。
実績もすごいです。1年間ですよ?1年でブログ収益だけで50万稼いでいました。
(今は90万だそうです。記事参照)
ただ、記事見て頂くと分かると思うんですが、変態です。
iphoneのロック解除を彼女の乳首で試す男です(笑)
ただ、僕が語っていいのかわかりませんが
行動力や有言実行力はシンプルにすごいなといつも思います。
とにかく行動する方で発言の説得力や重みはすごいです。
そんな、人とは明らかに違う感覚を持ち、芯のあるぶんたさんが大好きでした。
学生時代は入学式で突然肩を組まれ、ダル絡みが凄まじくウザいなとさえ思ってたんですが。笑
最終的にはいきなり廊下で女子の注目欲しさに腕立て勝負をし出したり、ぶんたさんの教室まで押しかけて昼休みを過ごしたり仲良くしてもらっていました。笑
ちなみにぶんたさん、腕力めっちゃあります。
そういえば初めて某マッチングアプリを始めたきっかけもぶんたさんでしたww
色々教えてくれている気がします。笑
そして、ある日去年の冬くらいだったと思います。
真夜中に詳しいことは忘れてしまいましたが
僕はぶんたさんになぜか八王子駅まで車で迎えに来てもらい
スタバによってお話をさせてもらっていました。
当時、ぶんたさんはコンサルをしたり、フードカーの事業をすでにブログも始めてらしたと思います。僕はその話やぶんたさんの考え方のど聞くのが本当に楽しくて遅くまで話していました。
それまでもご飯に誘ってくれたり、お話したりとお会いすることがあったのですが
忙しいであろうかいちょーは、なんで僕にこんなに時間を使って話をしてくるんだろう、と疑問に思い、なぜなのか聞いたことがありました。
するとぶんたさんは「お前には可能性があるから」と一言話してくれました。
(きっと本人は覚えていません。笑)
僕はこの言葉に嬉しさの反面、買い被りだという今の自分への悲観もありました。
ただその日から会社員として働く中、僕にも何かできるんじゃないか
やる前から何もやらずに諦めていいのか、ほかにやりたいことがあるだろう?
と自分の生き方を考えるようになりました。
それから、僕は将来の選択肢としてフリーランスを考えるようになりやりたいことに挑戦してみようと退職を決意しました。
フリーランスという働き方が気になった、が正しいかもしれません。
僕がフリーランスになりたかった理由は2つです。
・好きな仕事で時間とお金を作りたかった。
・そうして稼いだお金、作った時間で海外に行って旅がしたい
何かを選ぶことは何かを捨てることです。
僕は自分でかじ取りができ好きなことを追求できるようになる一方で
会社からの補償は消え、すべての物事に責任を持つことになりました。
辞めてからこれを書いている今まで後悔したことは全くありません。
今はこの目標に向けて頑張っています!
が先は長そうです。笑
すでに退職してから3か月が経ちましたがこの間にも様々な
楽しいコトや難題がありました(笑)
初めてのフリーター生活、突然の弾丸ヒッチハイク紀行などなど
次回はそんなことを書こうと思います。
「完璧を目指すよりまず終わらせろ」ということで
初記事でダァっと書き連ねましたが、見やすさ、面白さ云々は
これから頑張っていけばいいや、って感じでご容赦ください。笑
これからのしらぼーの成長やアクションを楽しみにして欲しいなと思います。
それでは最後まで読んでいただきありがとうございました!